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がんを治療する、「がんの3大療法」は有効か? 故逸見政孝さんの場合 |
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がん治療に、手術・抗がん剤・放射線の「がん3大療法」は有効か?
この記事は「逸見政孝氏のがん治療への疑問に答える」からの転載です。
最愛の夫・逸見政孝氏を胃がんで失くした夫人が、告知から最期に至る間の治療に感じた疑問の数々に答える
対談者 逸見晴恵(エッセイスト、故逸見政孝氏夫人)、近藤 誠
ガン専門医よ、真実を語れ/文藝春秋 より
管理人コメント:二人の真摯な会話が胸に迫る。真実に迫るとはこのことであろう。 逸見氏の闘病についてはメディアを通じてある程度分かっているつもりであったが、 そのような知識が上っ面で中身のないものだったと良く分かる。 是非一読されることを強くお勧めしたい・・・ |
1.無意味だったがん検診
2.前田外科での手術
3.手術後の抗がん剤治療 抗がん剤は胃がんには効かない
4.再発、前田外科での二回目の手術
5.体を弱らせた臓器三キロの摘出手術 東京女子医大へ転院、闘病記者会見
6.東京女子医大での十三時間に及ぶ手術
7.容体の悪化と抗がん剤治療 助けられなくてごめんね
8.意識不明、そして死
私がガンを恐れなくなった理由(逸見春恵)
人気アナウンサーの逸見政孝さん(享年48)が、一九九三年十二月二十五日にがんとの壮絶な闘いの末亡くなって、はや三年。死後、逸見さんに対して行われた治療、手術に対して、専門医の間でもさまざまな議論がなされてきた。
中でも治療内容の問題点について具体的に発言していたのは、九六年『患者よ、がんと闘うな』(文芸春秋刊)をベストセラーにした慶応大学医学部放射線科医師・近藤誠さん(48歳)だ。
三年前の近藤さんの発言と併せて『患者よ〜』を興味深く読んだという逸見夫人・晴恵さん(47歳)は かねがね、「一度近藤さんと会って聞いてみたいことがある」 と思っていたという。
逸見さんが亡くなって丸三年がたち、実現したふたりの対談。都内の取材会場に項れた近藤さんは晴恵さんを見るなり、「逸見さんの手術に関する論争では、私もいろいろ口出ししたことがあり、それでお心を騒がせたこともあるかと思い、その点についてはまずお詫びしたいと思います。
ただ日本の医療を変えていきたいという気持ちゆえの問題提起だったことを、ご理解ください」と頭を下げた。
晴恵さんはその言葉をゆっくりかみしめるように大きくうなずき、「主人は全く迷いなく手術を受けました。がんという病気を抱え、こちらは何もわからないので、病院でいわれるままにはい、そうですかと聞くしかなかった。でもそれがよかったかどうかは疑問です。
だから近藤先生がはっきりいってくださることは、主人にしても、残された私たちにしてもありがたいことだと思います」とこたえた。
夫の壮絶な闘病生活を振り返る場面では、ときに声を震わせながら、晴恵さんは近藤さんに問いかけ始めた。
1.無意味だったがん検珍
九三年一月、故逸見政孝さんは前田外科病院(港区)で、内視鏡による年一回の定期検診を受け、直径約二センチの胃がんが発見される。
検査を担当した新谷弘実医師は、逸見さん夫婦を呼ぶと、「はっきり申し上げると初期のがんです」と宣告した。
晴恵さんはショックで唇がガタガタと震えて声も出なかったが、隣に座っている逸見さんの顔がみるみる青ざめていくのがわかったという。 まだ初期の胃がんなので、取り除けばすぐに復帰できると説明をうけ、手術を決意する。
逸見晴恵さん(以下逸見) 「主人はたった一人の弟を三十二歳の若さで胃がんで亡くしているんです。その弟のがんは、発見された時はすでに手遅れだったものですから、自分はそうはなるまい、老いた両親を悲しませたくないという思いが強く、以来、年一回の検診を欠かしませんでした。
がんが発見される一年前にも前田外科で検診を受けていましたが、異常はありませんでした。わずか一年の間に手遅れになってしまったのですが、そんなに速く進行してしまうものなんですか?」
近藤誠さん(以下近藤)「それはよくあることなんです。”中間期がん”といって、検診と検診の間に急に大きくなるがんの存在は、昔から専門家の間では常識になっています。逸見さんの場合もそれにあたり、おそらく前の年の検査の時には、非常に小さくて見つからなかったと考えていいでしょう。
半年に一回の検査でも早期発見は難しい。仮に見つけたとしても大抵その時点で他に転移しています。
逸見さんの場合、逆算すると腹膜転移が起こったのはがんが一ミリくらいの時期と考えられます。そうなると、早期発見をしても、すでに転移しているわけです。
逸見 「だから、先生は主人の場合にも”がん検診は意味がなかった”とおっしゃるわけですね。
晴恵さんは近藤さんの目をまっすぐ見つめ、念を押すように問いかけ続ける。
逸見 「検査に関しては、他にも疑問を感じることがあるんです。たとえば、内視鏡検査というと、喉に軽く麻酔をかけるのが普通だということですが、主人は全身麻酔をかけたんです。こういったやり方には問題がないのですか?」
近藤 「日本ではまれな方法ですね。麻酔によるショック死等、麻酔事故の危険性もあるわけですから、ぼくはいい方法ではないと思う。内視鏡検査だって100パーセント安全とはいえません」
2・前田外科での手術
二月四日、前田外科病院で前田昭二院長執刀による最初の手術が行われる。手術後、晴恵さんは「初期のがんではなかったが、もう切除した」との説明をうける。逸見さんはこれで治ったと信じ、二月二十七日退院、仕事に復帰する。
逸見 「主人の死後、前田外科では、この手術を行った時点で主人のがんは悪質で進行が速い”スキルスがん”で、腹膜播種(腹膜内にがん細胞が黒ゴマをまいたように広がっている状態になっている末期がん)とわかっていたと、公表しています。
その時”胃の四分の一を残しました”と告げられたのですが、そういう深刻な状態とわかっていたなら、なぜ胃を全部摘出しないで残したのかが、いまでも疑問なんです。
近藤 「一般に小さいスキルスがんなら胃の一部を残すことがあるんです。しかし、逸見さんの場合はそうではなく、胃を突き破って腹膜への転移があったということですから、胃の一部にしろ全部にしろ、摘出手術そのものの意味が疑わしくなります。
必ず再発してきますから、本当は胃の摘出をしないほうがよかったかもしれませんが、全部摘出されるより、四分の一でも胃が残っていたほうが、食事がしやすかっただけましだったと思います」
抗がん剤は胃がんには効かない
3・手術後の抗がん剤治療
手術直後、抗がん剤の点滴が行われる。退院後は三月一日から、経口の抗がん剤を毎日服用。
さらにゴールデンウイークの間も、前田外科に再入院して、再発を防ぐためという理由で、抗がん剤の点滴治療を行った。
逸見 「主人は先生を信じきっていましたから、のみなさいといわれた経口抗がん剤も律儀にのんでいるわけです。さらに、再発の恐れがあるから抗がん剤の点滴をやりましょうといわれ、承諾しました。主人は長生きしたいと思っていましたから」
近藤 「それは意味のない治療でしたね。そもそも抗がん剤は胃がんのような固形がんには効かない。患者さんを副作用で苦しめるだけです。効くのは、急性白血病とか悪性リンパ腫など、がん全体の約一割に過ぎないわけです。 このことは専門家も認めているにもかかわらず、日本では必要以上に使われているのが現実です」
逸見 「主人はシスプラチンという抗がん剤を使っていたんですが、副作用もきつくて、”船底で常に揺れているみたいに気分が悪い”といっていました。
テレビにすぐ復帰するつもりでしたから、髪の毛が抜けてしまわないかと気にしていましたが、抜けませんでした」
近藤 「その薬の特徴は、吐き気が強く出て、腎臓障害などが出るんです。ただし、髪の毛はあまり抜けないですね。
いくら副作用がきつくても、患者さんは治ると思って抗がん剤治療を受けるわけですよね。ところがそれをがまんしても、数カ月延命できるかできない程度だとわかったら、苦しむより残された時間を有効に使う方を選ぶのではないでしょうか」
逸見 「主人の場合も治ると思って苦しい治療に耐えたんです。でもそんな話を聞くと、何でそこまで苦しい思いをさせてしまったんだろうって、地団太踏みたい気持ちになります」
4・再発、前田外科での二回目の手術
五月の抗がん剤治療の直後から、メスを入れた手術跡の線上が、ケロイド状に膨れあがってくる。そのうちに腫れ物状になったものが次第に大きくなり、一方所だけ突起して、服を着るにも邪魔なほどになってくる。
八月十二日、逸見さん本人には突起状の腫瘡を取るという説明で二回目の手術を行うが、実はがんが再発していた。がんは腹腔全体に広がり、すでに進行したがん性腹膜炎の状態だった。
逸見 「手術の途中でわたしは手術室に呼ばれ、執刀した副院長から”大変な状況で、これ以上手がつけられない”といわれたんです。
隆起した部分だけを取ってあとはふたをしめたんですが、急にいわれてもこちらはびっくりするばかりで頭の中はパニック状態でした」
近藤 「メスがはいって正常な組織が弱くなった所に、がんは増殖しやすくなります。だから、一回目の手術をした傷跡の所にたくさん再発があったわけですね」
逸見 「そうです。こびりついている感じでしたね。当然、前田外科では、開腹手術をする前から、内部にも再発、転移があることはわかっていたはずです。だとしたら、なぜ意味のない手術をしたんでしょぅか。本人にちゃんとした説明をして、選択させてほしかったと思います」
思わず口調が激しくなる晴恵さんをなだめるように、近藤さんはゆっくりとうなずいた。
近藤 「その通りですね」
逸見 「主人だって自分の命のことですから、一生懸命考えたと思いますよ。それが”突起物を取りましょう”という簡単な説明だけですから、取ってしまえばすむのだろうと主人はなんの疑いもなく手術を受けたわけです」
近藤 「これまでの日本の医療の悪い点が出てしまったという気がします。がんの再発だということをはっきりいわずに、患者さんをなだめすかしてあいまいにしておくから、結局は患者さんが、医師や治療そのものに不信感を抱くことになる。
結果論になりますけれど、最初の手術をせずに体をいじらないでいたら、もっと長生きできたのではないかと思います」
逸見 「何もしないでいたら逆に、あと一年か二年、元気に仕事ができたかもしれないわけですね。それはやはり悔しいです」
晴恵さんは、そういって唇をかんだ。
5.体を弱らせた臓器三キロの摘出手術
・東京女子医大へ転院、闘病記者会見
前田外科での治療、対応に疑問を感じていた逸見さんは周囲の勧めもあり、九月三日、東京女子医大病院(東京・新宿区)の羽生富士夫教授の診察を受け、三回目の手術を決意する。
九月六日、記者会見を行い、「私が侵されている本当の病名は、がんです」と公表し、がんとの闘いを宣言する。
逸見 「間単な説明だけで、”じや、手術しましょ”、そして手術後も院長先生は診てくれない、そんな前田外科の対応には納得できないことが多すぎました。
主人はいったん信じたら一途に信じる人でしたが、さすがに疑問を抱くようになったのでしょう。私たちの説得に応じて、東京女子医大の羽生先生を訪れ、診てもらいました。
羽生先生から”手術跡に長さ一二センチ、幅五センチのがんが再発し、腸閉塞の危険がある。その前に切らないと重大なことになる”という説明があり、主人は手術を決意し、そして、あの記者会見となったのです」
近藤 「テレビで記者会見を見たときには、逸見さんの立派な態度に涙が出そうになるくらい感動しました」
逸見 「私も一視聴者として自宅のテレビで見ていましたが、自分の夫ながらすごい人だなあと、まるでドラマでも見ているようでした。 だけど、あの会見も羽生先生との出会いがあって、先生を信頼していたからこそできたと思うんです」
近藤 「あの時点で逸見さんの気持ちとしては、”手術をやってみましょう”といわれれば望みがあると思ってしまいますし、手術を決意したのもよくわかります。
でも、会見の時の逸見さんの顔つきや肌色をみると、がんの専門医なら誰でもがん性悪液質(がんに体の抵抗力が負けた状態)だとわかったはずです。あの段階で治ることはないと」
近藤さんは晴恵さんを気づかいながらもきっぱりといった。
晴恵さんはその言葉を冷静に受けとめながらも、 「でも、望みがあったから手術をやったとしか、私たちには思えないんですよ…」 と自分にいいきかせるようにつぶやいた。
6・東京女子医大での十三時間に及ぶ手術
九月十六日、羽生教授の執刀により、内臓三キログラムを摘出する大手術が行われる。手術時間は、大腿部の肉を腹部に移植する形成外科手術も含めて十三時間に及んだ。手術後、逸見さんは一時は歩けるまでに回復した。
逸見 「手術方法の説明のときに”こんなに臓器を取っちゃって大丈夫なんですか?”と羽生先生に伺うと”可能性はある、元気になった人はいる”ということでしたから、主人も納得したわけです」
近藤 「我々医師の目から見れば違うなと思うことが多々あるんです。まず、腸閉塞の予防のために手術をするという説明ですが、予防は不可能ですし、手術してメスがはいった分さらにがんが増殖してしまう。症状が出てから処置を考えるのが普通のやり方です。
また、あの状態では病巣が取りきれることはあり得ないし、3キログラムも臓器を取ったら、かえって体が弱ってしまうということは目に見えています。治る可能性は1パーセントもなかった。 それなのになぜあんな無謀な手術を行ったのか、ぼくには理解できません」
逸見 「後になって医師の間から、手術はすべきでなかったという議論がおこり、大手術の末、あんな大変な死に方をすることはなかったと私たちも知りました。
おへそを取って、左脚の皮膚をお腹に移植して、さらに取られた左脚のケロイド部分に右脚の皮層を移植していますから、その痛みは相当なものだったようです。
”こんな痛い思いをしたことはない”といっていましたが、どんなに痛くても寝たきりで動けないので七転八倒もできない。床ずれもできる。痛みと気分の悪さで、最期は言葉も出ないくらい苦しんでいましたから、別の選択もあることを知っていたら、と非常に残念です」
近藤 「ぼくもおそらく他の医師たちも、ああいう拡大手術をするとは思っていなかった。晴恵さんを前に申し上げにくいけれど、治る見込みのないあの状態での大手術は医学的にみても非常識。そのままにしておいたなら、それほど苦しまずにあと一年は生きられただろうと思います」
逸見 「痛みに苦しむこともないし、体力だって消耗しなかったでしょうね。ただ、手術後はかなり元気になって好物の松茸ご飯やたこ焼きも食べていました。本人は明るい見通しで、自分がよくなっていくことに何の疑問も持っていなかったと思います」
近藤 「新聞や週刊誌で立ち上がっている写真を見て、その回復力にぼくも驚きました」
逸見 「それだけ生きたいという意志が強かったんです」
助けられなくてごめんね
7・容体の悪化と抗がん剤治療
逸見さんは順調に回復していくかにみえたが、十月二十三日、一時帰宅が予定されていた朝、突然腹痛を訴える。
腸閉茎が起こり、病状が急激に悪化。十一月八日、晴恵さんの反対にもかかわらず抗がん剤が投与される。
逸見 「抗がん剤を投与してからは、もうぐつたりして、気持ちが悪くて口もきけない状態なんです。 鼻から管を通して胆汁を吸いだしていたんですが、最初は透明だった液がだんだん黄色く濁ってきました」
近藤 「色が変わるのは閉塞が強くなり、胆汁が腸の方に流れず逆流してくるからなんです。おそらくがんが再発して腸管を塞いだためでしょう」
逸見 「抗がん剤をやらなかったほうが苦しい思いをせず、長生きできたのではと思います」
晴恵さんの顔がこの時、苦しそうにゆがんだ。
8.意識不明、そして死
十二月二十一日、熱が四〇度以上に上がり、容体が急変。二十二日には、意識がないまま起き上がり、長男の太郎さん(23歳)に向かって「太郎すまんな、頼むな」とつぶやく。
二十四日、意識不明になる。長女の愛さん(21歳)は、最後の二日間、逸見さんの手をずっと握りしめていたが二十五日十二時四十七分、家族に見守られながら永眠。壮絶な闘いに幕を閉じた。 晴恵さんは、「助けられなくてごめんね。許して…」と叫びたかったという。
逸見 「主人は最期まで羽生先生のことを信頼していましたし、手術や治療法についても何の疑いも持たず、これからよくなっていくんだと信じきっていましたから、遺言も残していなかったんです。
羽生先生の言葉にかけて、一途に信じて。でも主人にとってはそれでよかったのだといまでは思います」
近藤 「医師はとかく最後まで治療を続けたいという根強い考えがあって、かえってそれが患者さんを苦しめ、死期を早めているんじゃないかと思う。
必要な治療は受けた方がいいが、逸見さんのような場合は、手術も抗がん剤もやらないほうが延命につながったと思うんです。
私が著書『患者よ、がんと闘うな』で伝えたかったのも、痛みや苦しみに耐えるばかりの無益な治療で闘うなということなんです」
逸見 「医師のいいなりにならず、自分でも学んで方法を選べば、がんでもそんなに苦しまずに死ねるということですね。
主人の場合は納得して亡くなったと思いたいですし、あれこれほじくりかえすのも主人の本意ではないと思うんです。が、もし私ががんになったら、いろんな情報の中から納得できる選択をしたいとつくづく思います」
項在、全国各地で、ホスピスや病気と生きていくといったテーマで講演を行っている晴恵さんは、逸見さんの死を乗り越え、そこで学んだことを前向きにとらえ、自分の道を歩み出している。
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